アルベール・カミュについて語る中で、欠かすことのできない登場人物としてジャン・ポール・サルトルが挙げられます。この両者はフランスを代表する文学者・哲学者です。しかし一方でこの両者は激しく対立しました。それを「カミュ=サルトル論争」といいますが、これはいったい何だったのでしょうか?

 

カミュ=サルトル論争について解説

そもそもカミュ=サルトル論争とはどのような経緯で対立したのでしょうか?まずは簡単にこの論争についておさらいしていきます。

 

「反抗的人間」が契機

1951年にカミュは「反抗的人間」という評論を発表しました。こちらの評論はフランス内で大きな反響を呼びました。彼を支持する意見もあれば批判もいろいろと出てきました。批判の中でも大きかったのが「現代」という雑誌でした。「反抗的人間」に関する批判は実に2度にわたって繰り広げられました。この「現代」の編集長を務めていたのがサルトルだったのです。もともと思想上で両者は意見の衝突が見られました。しかし今回の論争が決定打となって、両者は絶縁状態に至り完全決別になってしまいました。

 

対立激化の経緯

まず1951年にカミュが「反抗的任気」を出版します。すると1952年に「現代」の中でフランシス・ジャンソンが「反抗的人間は失敗作である」という内容の「アルベール・カミュあるいは反抗心」を発表しました。カミュはこの論文に対して「現代の編集者への手紙」という反論を展開します。すると「現代」の中でジャンソンが「アルベール・カミュに答える」を発表しました。しかしカミュはジャンソンの向こう側のサルトルの追い落としを狙っていた節がありました。サルトルもカミュの意図に気づき、論文の最後に「もし君が僕に返答したければ、本誌を君のために開放しよう。だが、僕はもうそれには答えないだろう」というコメントを残し、事実上の絶縁状をたたきつけます。両者が和解をしたのはカミュが亡くなったとき、サルトルが追悼文を発表したのがきっかけでした。

 

両者の主張とは?

カミュ=サルトル論争は結局何に関する対立だったのでしょうか?両者の主張を見て、対立点について解説します。

 

反抗の哲学

「反抗の哲学」の中で、カミュは「反抗の哲学」と呼ばれる論理を展開しました。人はだれでも自由だが、その自由とは相対的なものであると主張しました。また彼は暴力による革命を否定しています。暴力は絶対主義であって、絶対的なものは人間的ではないという彼の主張とは相いれないものでした。

 

共産主義の達成

一方サルトルは共産主義を達成すれば、完璧な正義と完璧な自由の両者は成り立つと考えていました。資本主義の下では労働者は自由は得られず、貧困の中で苦しまないといけません。しかしそれが共産主義が実現することで問題は解決されると考えました。共産主義の下では物質的欲求を満たすこともできれば自己実現の最善の手段も獲得できる、自由に満たされるという主張です。

 

まとめ

「反抗的人間」の中で、カミュは暴力なしでの無欠の社会主義の実現を主張しました。一方サルトルは共産主義を実現するためには時には暴力に訴えて、戦って勝ち取ることが必要だと考えました。このように理想を実現するための手段に決定的な違いが生じ、両者は別々の道を歩むようになったわけです。