カミュはどのような創作活動を行っていたのでしょうか?彼は第二次大戦の開始にあたって徴兵を志願していますが、健康上の理由で拒否されています。の紙面で当局の厳しい取り締まりに合いながらも平和を訴え続けました。
平和主義者
平和を訴え続ける、彼はソワール・レピュブリカンを解雇されてしまいました。その後彼はパリ・ソワールの編集部に異動して、引き続き人間の不条理を訴えていきます。1940年代になってナチスにパリが占領されるとパリ・ソワールを解雇されることになります。その後、彼は妻の実家に身をよせて、創作活動を続けていましたが、1942年に吐血したこともあって、パリ郊外で療養を行いながら、創作活動を続けることになりました。
パリ解放の後
1944年に、パリ解放が行われると、それまで地下発行であったコンバを公刊し、編集長として活躍を見せます。紙面で彼はコラボに対して、非常に厳しい態度を示しています。場合によっては極刑も致し方なしという考え方に立っていましたが、のちに死刑については反対の立場をとるようになりました。
第二次大戦後
第二次大戦後には平和をモチーフにした彼の作品が多くが上演されるようになりました。1946年に彼はアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行っています。講演の中で、彼は、物質崇拝主義に警鐘を鳴らしています。ガリマール社の企画審査委員会のポストに就任して無名の思想家だったシモーヌ・ヴェイユの考えに影響を受けるようになりました。
孤立化
1947年に彼は極限状態に置かれた市民の生きざまを描いたペストを刊行して、大きな注目を集めるようになりました。名声をほしいままにしていた彼でしたが、1952年に刊行されたエッセイ反抗的人間では毀誉褒貶を受けることになってしまいました。更には故郷で起こったアルジェリア戦争に対して、フランスとアラブの共同体という考えを捨てることができなかったために、戦争を支持している様に見られてしまって、フランス内で孤立を招く結果になってしまいました。
まとめ
一貫した平和主義者として、多くの著作を残したカミュは過酷な第二次世界大戦の中で、翻弄され、自分の生まれ故郷の中で最後は孤立化してしまいました。平和を愛する気持ちと裏腹に世の中に誤解されてしまった彼の思いはどのようなものであったのでしょうか?彼の作品を今一度読んでみると彼の苦悩を知ることもできるのかもしれません。